『現代文學』安吾抄



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※『現代文学』は、同人誌『槐(えんじゅ)』の後継誌として、大井広介・小熊秀雄・菊岡久利らを中心に昭和十四年十二月に創刊、昭和十六年三月からは同人制をとり、昭和十九年一月号でその幕を閉じるまで、必ずしも時局に迎合しない「文芸誌らしい文芸誌」として多くの作家の活躍の場となった雑誌です(うーん、こういう括り方にも問題あるが、まあいいか)。安吾に関して言えば、「文学のふるさと」「日本文化私観」等の極めて重要な作品の発表誌であるにとどまらず、執筆活動の基盤になった雑誌といえます。
 今回、故あって『現代文学』の臨川書店による復刻版をまとめて読む機会があり、安吾に関する記述を拾い読みしながら作ったノートが意外に面白いので、こういう形にまとめてみました。安吾の作品や座談会は全集でも読めるのでここでは省き、その他『坂口安吾研究』等の書籍に収められているものも載せていません(井上友一郎の「炉辺夜話集」評とか)。従ってここに載せたのは筆者すらわからない雑文みたいなものが中心で、いわゆる「大井サロン」の雰囲気を伝えるようなテクストが多いので、寧ろ楽しんで読めるのでは、と愚考する次第です。
 なお、本コンテンツは言うまでもなく未完成です。今後も暇を見て更新する予定にしております。

昭和十六年十月号

第四巻・第八号
昭和一六年一0月

『河田誠一詩集』について   井上友一郎

(前略)
かくて河田と私たちは、昭和八年の春、「櫻」といふ同人雑誌を出した。私はまだ早稲田の学生だつた。同人には現在出征中の田村泰次郎や、坂口安吾、北原武夫、菱山修三、大島敬司、矢田津世子、眞杉静枝などの諸氏がゐた。お互いに若かつたせゐもあるが、ひどく元気な雑誌であつた。元気すぎて、やたらと先輩の反感を買つてゐた。何でも創刊の前後だつたと覚えてゐるが、一夜、朝日新聞社の講堂を借り切つて、講演と映画の夕といふやうな催しをやり、すこぶる気勢をあげたものである。
 同人は、その夜、それぞれ講演をやつたわけであるが、この河田と現在本誌にゐる坂口安吾は、酒を一杯ひつかけないと巧く喋れぬ、といふやうなことを云ひ出して、控室でチビリチビリ冷酒をあふつてゐた光景が、いまだに私の瞼には鮮かに残つてゐる。数寄屋橋が雨に煙つてゐたこともよく覚えてゐる。(後略)」

解説
河田誠一は昭和九年に病死した詩人・小説家。その詩集が昭和一五・九に昭森社より出版された。井上のこの文章はそれを受けて回想を中心に書かれたもので、書評欄とは別に掲載されている。やや長い文章のため、安吾の名が出てくる冒頭近くの部分のみ抄録した。

ちなみに安吾は「愉しい夢の中にて」を『櫻』の河田誠一追悼号(昭和九年四月)に寄せ、その死を悼んでいる。




昭和十六年十一月号

第四巻・第九号
昭和一六年十一月号

英雄を語る(座談会)

(前略)
尾崎 たまにまとまつた原稿料が入ると、銀座へ飲みに行くやうなものか。(笑声)
大井 飲む話で思ひ出したけれども、坂口安吾がかういふ事を云つてゐましたよ。英雄色を好むといふが、尾崎士郎の英雄は酒ばかり飲んでゐるつて……(笑声)
尾崎 酒ばかり飲んでゐるのは坂口だらう。(笑声)
井上 いや、しかし尾崎さんの小説はよく飲むよ。「人生劇場」もよく飲んだし、今度の朝日の「高杉晋作」も相変らずよく飲んでゐる……(笑声)
(後略)

解説
先輩格の尾崎士郎を迎えて、大井広介・井上友一郎の若手二人が話を聞くというスタイルの座談会の筈が、若手コンビが夢中になって話しまくり、尾崎は「さうかな」「さうだね」とかしか云わない前半。最後には「今日は寧ろこつちが聴き役みたいで面白かつたよ」と感想を述べる始末。それでも、後半は自身の作品「石田三成」を中心に話し始め、河上彦斎の剣法の型を演じてみせるなどして若手を圧倒、結局おいしいところを持っていってしまうところなど流石はベテラン。これは尾崎がようやくまともに喋り始める直前の部分で、安吾の話題が出た部分のみ抄録した。

ちなみに、尾崎の「石田三成」が安吾の歴史物、特に「信長」に影響を与えたとする説があるそうだ。実際に読んでみると、前半の主人公はどう見ても前田慶次郎で、こいつが確かに酒ばかり飲んでいる(笑)。 素面の時が無いんじゃないかってくらいで……。それはさておき、語り口や作者が顔を出すスタイルなんかは確かによく似ている。でも「影響」って言われてもなあ……



昭和一六年十一月号

坂口がウスノロ戦に関し、前号には野口が野球戦に就き、かいてをり、かういふ時節によく遊ぶ奴らだと誤解を招きかねないが、(生き、書き、愛せり)といふスタンダアルの向ふをはるわけではないけれど(よく勉強し、よく仕事し、よく遊ばん)とすべて溌剌を期すわれらの信條である。其点大いにご安心を乞ふ。
 坂口の文章は更に二重に誤解を招く仕組になつてゐる。徹夜にいちばん元気だといふゲームに何の関係もないことをもちだし あたかもいちばん勝つかのやうなニユアンスがもたしてある。ウスノロは即ちウスノロが敗けるので、俊敏隼の如き、或は生馬の眼を抜くが如き一同の中では、(大観堂主人の如きはウスノロときいただけでも戦慄するが)坂口はしばしばウスノロにされる始末である。まづ六大學チームにも匹敵すべきは、井上、前田正衛、大井、南川、佐々木、杉山といふ邊りであらう。もつとも杉山は自称巨人軍であるが、実はありとあらゆる術策を弄し(稲邊、佐々木と狡猾トリオとよばれ)ようやく六大學の末席に連る次第でまづ帝大といふ所であり、平野は大眼玉をギヨロつかせ不正を看破しトリオの恐怖の的であるがノロく、坂口は遥かにそれ以下である。
 野球は、もし球を外野に飛ばしたら一大事と投手力投して一度も外野に球のとどかぬ仕合を演じたが、往復だけで野口、稲邊 若園清太郎の三外野手顔色蒼然、勝つた時も敗けたやうな表情であつた(豊田がちやんとカメラに納めた)。グラウンドが早大だつたので、松井選手など観戦してゐたが、球は行かなくても恰好だけでわかるとみえ、林マネーヂャー曰く、まづ使へるのはあのシヨート(井上)だけデすね、と。井上の得意おして知るべし、彼は中學時代から有名な野球狂で、上京し早稲田に入る時、野球でなく文學を志望したときいて郷党、あれ程好きな野球より、文學を選んだ程なら、案外文學でモノになるかしれぬと、カンタンせし由。なほ自称ホームラン王菊岡はいざといふ日になるときつと故障をおこし、高木卓は相手が女流でないと参加しないと宣言してゐる。
 なにせ、坂口の走り高とびと碁、菊岡の水泳とピンポン、豊田の将棋、大井の行軍将棋、杉山の闘球盤、等々多士儕々を極めてゐる。

解説
無題・無署名のコラムだが、筆者はおそらく大井広介。これで全文である。

文中の「ウスノロ」について書いた「坂口の文章」とは同じ十一月号掲載の北原武夫との「文学問答(往復書簡)」を指す。「前号には野口(冨士男)が野球戦に就き、かいてをり」とあるのは、先月十月号の「編輯後記」を指している。



昭和一六年十一月号

文藝時評  宮内寒彌

(前略)又、矢田津世子氏が「鴻ノ巣女房」の初めに書いた、短い「鴻ノ鳥物語」、は前に坂口安吾氏が(現代文學)に紹介した、シヤルヽ・ペローの童話「赤頭巾」にもおとらぬ、「何か氷を抱きしめたやうな、切ない悲しい、美しさ」として印象に残つた。

解説
文芸時評の末尾で「時代の影響を受けた現代風な」「それぞれの特色のあるスマアトな小説面白い小説」として幾つかの作品の名前を挙げた後、特に宮内の印象に残った作品として挙げているのが石川達三の「航海日記」と矢田の「鴻ノ巣女房」の二作品で、そのうち矢田の作品を評価している結びの箇所を抄録した。

それにしても、矢田の作品を褒めるのに、よりにもよって安吾の「文学のふるさと」と結びつけているのが目を引く。というのも、先月十月号で野口冨士男が編輯からおりているのだが、矢田の随筆「車中にて」を野口が同人達に諮らないまま『現代文学』昭和十六年六月号に掲載したことに安吾が難癖をつけたのがその理由だと言われているからで、宮内の心中に「わがまま」な安吾への挑発の意識があったとも考えられる。




昭和十七年一月号

第五巻・第一号
昭和一七年一月

頭脳錬成 大井廣介

(前略)
 其処で私達(現代文学)では率先して頭脳錬成に着手した。例のウスノロといふ遊戯も試みの一つである。先ごろ秋期選手権大会をやつたが、宮内寒彌奮起し選手権を獲得した。私は惜しくも一点の差で次席になつた、平常正直に口をきいて怨みを買ひ皆にマークされとんだ仇討された。ちなみに、井上佐々木角遂し同率四位、漁夫の利で坂口三位、杉山自称名人は六位で口惜しがり《選手権は認めるが名人は僕だ》と筋のとうらぬ(ママ)抗議をしとる。菊岡七位、平野九位高木十位といふ成績であつた。
 もう一つ、探偵小説競争といふのをやつてゐる。翻訳物の探偵小説をテキストに、尻の方の三章ぐらひを取去つて、犯人、てぐち、を推理する。平野謙によると、彼はむつつり右門でさり(ママ)、坂口安吾があばたの敬四郎、赤木俊がおしやべり伝六ださうだが、答案が残つてゐるので誰がホームスで誰がワットソンか一目瞭然である。解答中の傑作は、これは右門氏であるが、理由を《色と慾だ》と推定した。けだし、大概の犯罪は色と慾の域をでない。天晴れ迷探偵である。昨夜も一戦したが、坂口探偵の流儀は振つてゐる。この犯人は、屋内にゐたらしくなつてゐるから即ち屋外からはいつたに違ひない、男らしくみへるから実は女にきまつてゐる、と。これぢやめつたにつかまらない。頭脳錬成に遠いものである。どうもこの両探偵には、かうであると同時にかうでもあるといふやうな復雑(ママ)な把握ができぬ、かうと思込んだが最後どんどんその方にはめをはづして終ふドグマチストなのでどうも狂はざるを得ない。こないだはクリスチイの「三幕の悲劇」といふのをやつた。嫌疑者はタツタ三人の小説だ。私と平野赤木両探偵は犯人あてたが、《これをあてきらぬ奴は、探偵小説の読者たる資格がない》と豪語してゐた坂口探偵は二通りも答案用意しどちらもはづれ、よくもまあかうまで見当の違つた解釈もできるものだといふ呆れた惨敗ぶりで、あとで、《あの時ばかりはもう自殺しようと思つたよ》と本人しみじみ述懐した程である。その時の平野探偵の答案といふのが、まるで読んだやうにピタリ正解だつたのでおかしいおかしいと思つたら、果せるかな前に読んだことがあつたのださうな。彼氏曰く《僕のが鮮かに当つてゐた時は満座水をうつた如く声なく三人共顔色蒼然としとつたよ》と、これぢやまるで探偵か犯人かわからない。
(後略)

解説
「現代文学雑記」欄に掲載された大井広介のエッセイ。大井邸でのゲーム大会の模様がわかる部分を抄録(全文の約半分程度)。
特に探偵小説の犯人当ての様子がわかる資料としては、安吾を「あばたの敬四郎」にたとえたり、「三幕の悲劇」事件で平野が一同を驚嘆させたり、といった有名なエピソードがリアルタイムに近いこの時期に報告されている点で重要なものである。しかしわからんのは「三幕の悲劇」の嫌疑者が三人しかいないのくだりで、どの三人のことを言ってるのかな?(笑)



昭和十七年二月号

第五巻・第二号
昭和一七年二月

坂口安吾 仮題 島原の乱 上下

 徳川幕府へ最初の反抗ののろしを放ちながら、交易を代償とする憎むべき阿蘭陀の砲撃に、數ヶ村の老若男女が屍を重ねしかも武器に訴へたが故に殉教の徒ともみなされなかつた島原の乱、『文学界』連載『イノチガケ』により切支丹物への抱負の一端を窺はせし惑星坂口安吾が、斬新な人間創造と奔放な設定を駆使し、いまぞ期待に応へる会心の傑作。スタンダールを彷彿しメリメの香気高く、まさに歴史文学のジヤンルを拡充するもの。

解説
大観堂の「長篇歴史文学叢書」の見開き二頁の広告より。同じ広告が三月号にも掲載されている。ここには他に井上友一郎「千利休」丹羽文雄「勤王届出」他九作品が取りあげられている。

にしても、「スタンダールを彷彿しメリメの香気高く」だって(笑)。誰が書いた惹句か知らないが、それが本当なら是非読みたかったなあ。




昭和十七年三月号

第五巻・第三号
昭和一七年三月

雪の夜に  杉山英樹

(前略)
今ごろ、連中は何をしてゐるだらう。坂口安吾は『島原の乱』でも書いてゐるかな。それとも、雪見の御酒でもいただいてどこかから帰りの路をいそいでゐるか。茶の間で、奥さんとお茶を飲み、さて、仕事にかかるかなと、いつてゐるのは、井上友一郎。平野謙は、二階の書斎でごろりと横になり、ああ疲れた、と読みさしの本を投げ出したところかもしれぬ。鉢巻をして、小説論のノートをとりながら、トルストイ全集十三巻の遺稿集をなんとか手に入れて読みたいものだ、と考へてゐるのは大井廣介。ところでフランシスよ、十時五分か。もう少し。あと二十行かこう。(後略)

解説
「大東亜戦下の文学者の日記」欄に掲載された杉山英樹の昭和十七年二月一日の記。自分も原稿を書きながら、その同じ瞬間の「現代文学」の名物同人達の仕事ぶりを想像して書いている部分を抄録。各人の姿が彷彿とするようで、思わずにやりとさせられる。

文中「フランシス」とあるのは「姉のかたみ」のスイス製の腕時計とのこと。平野謙の「二階の書斎」は、「現代文学」昭和十七年二月号の「往復書簡」で宮内寒彌が「ゲーテのやうな書斎」と評して以後、暫く冷やかしのタネになっていたことを踏まえているのかもしれない。




昭和十七年六月号

第五巻・第六号
昭和一七年六月

一読者よりの投書

 「現代文学」野球団の今シーズンの活躍は如何に? 筆者の想像によれば、このチーム、守備よりも攻撃に特色あり、大体左の如きか。
 一番バツターは杉山左翼手、必らず何とか誤間化して出塁する。全く選球眼は相当なもので、時には審判まで誤間化されて、四球を宣言してしまふ。 派手なフオームと、強肩をもつて鳴る。或ひは投手盤にも立ち相手打者を煙に巻く、腕より心臓で投げる。二番は南川三塁手、慶応の後輩宇野と並称される伊達男、最も婦女子の支持あり、攻撃は意外に辛辣で、最近も徳田チームを猛烈に叩きつけた。三番は大陸で活躍してゐた壇一雄中堅手が、豊田三郎の従軍といれ代つた。敏捷好走の元気者、ボールが来ないと、時々中堅で昼寝してゐる大胆不敵さ、味方に注意されると、これは浪漫派的守備法だとケロリとしてゐる。四番は主将井上捕手、いつも捕手をやるのを面倒がるが、とにかく無理に本塁を守らせられ、ぶつぶつ言ひながらやつてゐる罰によく打者のチツプで傷つけられる。戦へば車輪の奮戦をやり、やはり守備より打撃が面白いと大喜びでバツツト(ママ)をふりまはしてゐる。五番は大井一塁手、選球に難あり、鼻柱強く、ボールでもストライクでもおかまひなしに打ちまくるが、当りは痛烈、時々味方のベンチへも猛烈なフアウルを打ちさむ(ママ)。
 六番は菊岡右翼手、十貫のバツトを軽々ふりまはし、台湾遠征ではホームラン三本記録したと自称する大物打ちだが、よく試合当日になると持病をおこし欠場する。守備は甚だ乱暴である。七番は宮内三塁手、何をしでかすかわからぬ曲者で、甚だ相手に嫌はれる。盗塁に、定評のあるうるさ型、時々一塁を踏まずに二塁まで駈けこんで抗議を申しこまれ、踏んだ踏まぬで紛争のまとになり、審判も手を焼く。八番は監督坂口遊撃手、攻守とも苅田そこのけの名人芸を示す千軍萬馬の古強者、試合当日のお天気で、くさつたりなげたりする悪癖あり、遊撃を守つてゐて、退屈するといつの間にか居なくなる。マネーヂャーの野口冨士男が、よく浅草の先まで探しにゆき、連れてもどると大低(ママ)試合はすんだあとで役にたたず。
 ラストは投手であるが、巧緻なコントロールとカーブをもつて売出した北原武夫従軍したあとは平野謙が主戦投手であるが、北原に似て北原に以て優る巧妙な投球するが守備に難あり、たまたま崩れはぢめると収拾つかなくなる。リリーフの赤木俊は剛球一本槍で変化に乏しく、新人佐々木基一は平野以上に鋭いきれ味をもつが、平野以上に耐久力がない。むしろ老巧山室静が無難な戦果をおさめるが、年齢の故か闘争心乏しく、左利きの高木卓が闘志旺盛で、岩上チームの攻撃をペシヤンコに逆襲し世間をアツと言はせたのはあまりにも有名である。以上要するにこのチームは多氏済々だがチームワークがなかなか取れず各人各自の好みで勝手に試合を進める。但し徹夜の夜間試合をやらせるとその底力は恐るべきものである。
(是矢 壮太)

 校了にする処へ坂口が意気陽々(ママ)と小説持参したが無論まにあはず、「今月はばかに早い」とこぼしながら右の投書に眼を留め憤然色をなし「今でこそ焼酎に二日酔などするが幼少の頃は飛行家志望で軍縮に失望して坊主の学校へ行かなかつたら今頃はアメリカ空襲の指揮をしてゐたのだゾ」と。

解説
「是矢壮太(こりゃそうだ)」なる読者からの投書の形をとっているが、明らかに同人の筆になる、名物同人達を野球選手に見立てた戯文。『槐』二号(昭和一三・八)によく似た筆名「是矢堂太(こりゃどうだ)」のコラムがあり、或いは同一人か?とすれば、筆者は大井広介の可能性が高いが。

内容も野球にひっかけた楽屋落ちで、例えば「時々味方のベンチへも猛烈なフアウルを打ち」こむと書かれた大井広介の場合、そのココロは「仲間ぼめを嫌って、同人仲間に歯に衣着せぬ批判をする」の意。「高木卓が闘志旺盛で、岩上チームの攻撃をペシヤンコに逆襲し」とあるのは、歴史小説を巡る岩上順一との論争を指している等、内情を知って読むと興が増す。抄録するのもなんなので、全文を写した。三塁手が二人いるなあ(笑)。
それはともかく、気に掛かるのは最後の部分の「坂口が」「小説持参した」との箇所で、編輯後記と併せ読むとこの小説とは「天草四郎」でなければならないが、もしそうならこの時、一部分にせよ「天草四郎」の原稿が雑誌掲載可能な形で出来ていたことになる。真偽の程は如何に?



昭和一七年六月

 代行を命じられこの二箇月の編輯は私がやる。これ迄しばしば私が編輯に参画してゐるやうに書かれたが、相談うけた範囲で手伝つたに過ぎない。一人で編輯するのはこれが始めてで、この二冊総て私の責任である。
(中略)井上の力作『清河八郎』は得たが、坂口の『天草四郎』の遅れたのダケは残念だつた。
 日本浪漫派の寵児壇一雄の帰京も一段生彩を加へるだらう。彼は実朝を主人公の野心作に着手した。更に高木卓其他を擁してゐる私達は歴史文学にも多大の貢献を約束することができる。
 催し物は丹羽文雄は何を考へてゐるか。氏の壮行を祝す。
 読者諸兄是非お願ひ致しておきます、忌憚のない小言を時折おきかせ下さい。(大井廣介)

解説
特に題は付けられていないが、大井広介による編輯後記。読者からのリアクションを求めたりしているが、次号に早速読者からの質問欄を設けたりしており、これがやがて読者の頁として定着していくことになる。意外に編集者としての才能ありか?(笑)



昭和十七年七月号

第五巻・第七号
昭和一七年七月

甘口辛口  井上友一郎

 作家と批評家とは、ものの云ひ方がまる
で違ふ。「現代文学」の仲間とつき合つてる
と、殊にそれがハツキリする。文学論でも
雑談でも作家は大概一ト言で、序論・本論・
結論を云はうとして、結局まごまごと何度
もわけのわからぬ事を繰返してゐる。それ
からみると、批評家は徐ろに序論を述べ、
そいつが済むと本論に入り、だんだん結論に
進まうとするやうな性癖がある。
 最も顕著な見本は坂口と大井である。坂
口の駆使する用語は実に少い。面白い、面白
くない、つまらん、つまる、馬鹿、日本一
といふやうな範囲である。大井も語ゐは多
くはないが、しかし滔々として述べ立てる
と序論の中で夜が明ける。まるで相撲の番
付みたいにその序論には、序の口、序二段
三段目と付き、それから幕下、十両と進ん
でゆくので、やつと本論に入つてゆくと両
力士ともフラフラである。だが、この二人
が仲よく浅草あたりで飲んでゐるのは、双
葉安藝の取組以上に面白い。酒が廻ると坂
口はエスプリだけになつてしまふので、さ
すがの大井も十両どころの取組で断念して
逃出してしまふらしい。(井上友一郎)

解説
今号の責任編輯者である大井が「十九字詰め二十四行」と指定して十二人(+大井自身で計十三人)に書かせた「甘口辛口」という短文の内の一つ(但し、菊岡久利と佐々木基一は倍の行数)。この妙な指定は実物のレイアウトを見れば納得がいく。一頁三段組で、それぞれの段にこの短文一つがぴったりと収まり、都合見開き二頁に六人分の文章が整然と並ぶ仕掛けになっているからだ(尤も、それがうまくいっているのは最初の二頁だけだが)。


昭和一七年七月

質問欄

(前略)
★坂口先生の『島原の乱』『天草四郎』などは一体進行してゐるのでせうか(取手老人)
答 先生にお尋ねしたら「心配し給ふな、僕だつて一枚以上は書いてゐるよ」とのおほせでした。
(後略)

解説
早速設けられた質問欄に、こうも都合よく質問が舞い込むものだろうか?(笑)多少ヤラセっぽい質問の中から安吾に関するもののみ抄録。今にしてみれば、この「取手老人」、二作品とも安吾が書けそうにないことをよくぞ見抜いたという感じですな(笑)。


昭和一七年七月

★平野の原稿は校了までに届いたら上首尾だといはれてゐる位だが、原稿頼んで誰々が難攻不落かといふと、はしなくも太宰治に無心を告発された大井の体験談によればまづ宇野千代、亀井勝一郎、小山祐士の三氏ださうな。何でも宇野女史は約束をしたやうなしないやうな、虚々実々、終ひにはとても書けさうもない事情にアベコベに同情させられ、亀井氏は柳に風の応対、どういふ所存か雲を掴むやうで、皆目手ごたへなし、小山氏に至つては井伏直系、全然歯がたたぬとは上には上があつたもの。
★なんで、平野の原稿が遅れるか調べてみると、探偵小説に凝って坂口大井と徹夜ばかりしてゐるといふ。今官一がカラマゾフの続編を数百枚かいた向ふを張つてか、ポウの未完の長篇の解決篇を坂口平野は合作するにつき、なにしろ一言居士どうしで仲々意見の一致を見ず、徒らに幾晩もつぶしてゐるといふ、大井に至つては「探偵小説からみると私小説なんざ、噴飯、狂気の沙汰である。健全な読者なら必ずや探偵小説の方を採る筈で、俺はいまに純正探偵文学擁護論といふ画期的大論文をものにして、乱歩ら似て非なる悪作によつて誤られ語(ママ)解された純正探偵文学を再認識してもらふ」と力んでゐる。この迷探偵トリオ、しきりに小説の尻尾をはし折つては犯人の当てあひをやり、頭脳的経済的な競技だと称してゐるが、解らないのは、坂口によれば「二人とも腕はあげたが口程もなくてね」、平野にきけば「無論アノ二人に僕が負ける筈がないぢやないか」、大井の説明では「我輩二、平野一坂口0の勝率だよ。高見順夫人にきけば、平野君は、大井君にはかなはんよと白状したさうでね」とは、はてな?

解説
無署名・無題のコラムだが、筆者は内容から見ておそらく大井広介。文中「太宰治に無心を告発された」とあるのは、同号掲載の太宰の「甘口辛口」を指す。これで全文である。

大井広介邸に於ける探偵小説の犯人当ての様子を知ることの出来る資料の一つ。「坂口平野」の合作なんて、もしも実現してたらどうだったろう?やたら理屈っぽい内容だったりして(笑)。




昭和十七年八月号

第五巻・第八号
昭和一七年八月

北原武夫へ  井上友一郎

(前略)
実は先夜、僕は現代文学の連中と浅草の「染太郎」で一杯やつてゐて、まことに偶然中の偶然だが、君の放送を耳にした。しかし、その時の放送は、どうも普段の君らしくなく、遠い遥かな君の声が終つて、最後にアナウンサーが再び、「只今の放送は北原武夫氏でした云々」と云はれても、僕はどうも君とは思へなかつた。坂口などは、今のは北原の書いたメモを、誰かが代つて読んだのだよ、と断定的に主張したが、むろん坂口の早呑込みはアテにならない。それにこの時の坂口は、ウヰスキーを浴びるほど飲んでゐたので、一さう然りだ。しかし、僕には、どう考へても君の日頃の喋り方に遠くて、何だか他人のやうな感じだった。(後略)

解説
「南方派遣作家へ」欄中、井上友一郎が書いた北原武夫宛公開書簡より、安吾が顔を出している一節を抄録。この書簡は同号掲載の北原武夫「南方からの私信」への返事とも考えられる。
編輯後記によれば、「今月は、南方派遣の作家たちに慰問、激励、註文その他の言葉を集めました」とのことで、同欄では他に、大井広介の尾崎士郎宛書簡にも安吾の名がちらっと出てくるほか、伊馬鵜平の井伏鱒二宛書簡に太宰の名がこれまたちらっと出てくるのが目についた。
文中「染太郎」は浅草にあった飲み屋で「現代文学」同人のたまり場であり、安吾と大井がよく連れだって飲みに行った店でもある。最初は浅草に詳しい高見順が紹介してくれたらしい。店名の由来は皿回しとは関係なく、店のオヤジの名前から(この頃はもう故人の筈だが)。


昭和一七年八月

南方からの私信  北原武夫

どうですか、坂口君。御元気のことと思ひますが、小生も仲々元気です。しかしここまで来てものの考へ方ものの行ひ方その他すべての点であんまり変らなすぎるのに少々驚いてゐます。人間の覚悟といふのも平時の日常茶飯事に於いて自力を以て作り上げておくものだといふことをしみじみ感じました。この分では小生など今銀座から帰つたやうな顔で日本の土を踏むでせう。こつちでは日本の本が読めないのが苦痛です。僕等がものを考へるのは日本語で考へてゐるのだといふことを実に痛感します。小説を書きはじめてみてそのことが一層よく分りました。それと僕のやうな人間は風景や珍らしい土地や変つた人間などをいくら見てもそれだけでは何のタシにもならないのでつまらんです。それと気候の関係で酒がのめません、すぐ飲むとグツタリしてしまふのです。まあゆつくり頑張るんですね。菱山は丈夫になりましたか。よろしく仰言つて下さい。くれぐれも御大事に。

坂口安吾様      北原武夫

解説
「南方からの私信」として安吾宛と井上友一郎宛の二通の書簡が掲載されているが、そのうちの安吾宛の全文がこれである。
北原武夫は陸軍報道班員として昭和十六年十一月に徴用され、直後に日本軍の進撃に随行してジャワ島に行っている。帰国は昭和十八年一月(『現代文学』昭和十七年十二月号の消息欄参照)。末尾近くに「菱山」とあるのは詩人の菱山修三のこと。安吾・北原共通の旧友で、ちなみに安吾の「宿命のCANDIDE 」(『櫻』二号・昭和八・七)は菱山訳のヴァレリイ『海辺の墓』讃として書かれたエッセイである。菱山は昭和十八年三月号から「現代文学」の編輯同人に迎えられることになる(同号の消息欄参照)。


昭和一七年八月

消息

▲丹羽 文雄氏 七月十五日公務にて東京出発、某方面に赴いた。
▲坂口 安吾氏 今夏一杯は信州及び郷里新潟で送る。
▲井上友一郎氏 「千利休」上巻四百枚を脱稿した。近く大観堂より上梓。
▲宮内 寒彌氏 短篇集「からたちの花」を大観堂より近刊。
▲野口富(ママ)士男氏 六月廿二日、次男出生したが生後一週間で喪つた。
▲壇  一雄氏 板橋区下石神井二ノ一、二一一に転居した。

解説
この号から「消息」欄が設けられるようになり、それは昭和十八年九月号までほぼ毎号続く。これについては折角なので全文・全号(安吾に触れていなくても)録しておくこととする。 安吾はこの夏帰郷し、長兄献吉宅で例の「島原の乱」を執筆しようとしたようだが、結局うまくいかなかったらしい。



昭和十七年九月号

第五巻・第九号
昭和一七年九月

消息

▼赤木  俊氏 アイリーン・パウア「中世紀の人々」を翻訳、大観堂より上梓した。
▼南川  潤氏 書き下ろし長篇「貝殻」を執筆中。
▼野口富(ママ)士男氏 書き下ろし長篇「つめたい人」を執筆中。
▼佐々木基一氏 信州追分より帰つた。
▼北原 武夫氏 評論集「創造する意志」を中央公論より上梓。

解説
安吾の名前は出てこないが、お約束なので「消息」欄の全文を掲げた。野口冨士男の「冨」の字はよく間違っているが、当時は「富」でもオッケーだったのだろうか?よって、以後【ママ】の註記は略すこととする。


昭和一七年九月

大観堂出版通信

(前略)
短篇集は、宮内寒彌氏の『からたちの花』が出来ました(四00頁¥二・五0〒・二0)。更に、追随を許さぬユニックな作風でお馴染の坂口安吾氏の傑作短篇集『眞珠』を送ります。未発表の短篇や書きおろしの中篇を含み、これまた見逃されるわけには参りますまい。(後略)

解説
『現代文学』の出版元でもある大観堂の情報頁に安吾作品への言及があったので抄録。この時期の安吾は「ユニック」という形容で語られるのがお決まりだったらしい。



昭和十七年十月号

第五巻・第十号
昭和一七年・一0月号

消息

▼菊岡 久利氏 珊瑚座正月上演台本「富岡鉄斎」を執筆中。
▼赤木  俊氏 八月廿六日長女出生、みどりと命名の由。
▼井上友一郎氏 九月十一日長女出生、眞帆子と命名の由。
▼坂口 安吾氏 新潟より帰京した。
▼壇  一雄氏 大政翼賛会に入つた。
▼平野  謙氏 「志賀直哉論」を三笠書房より近刊。
▲佐々木基一氏 病気静養中にて、当分執筆不可能の由。

解説
なんだかベビーラッシュな消息欄ではある。安吾は結局「島原の乱」が書けないまま帰京した。なお、「▲▼」は原文のママである。この向きって、何か意味あるのだろうか?



昭和十七年十一月号

第五巻・第十一号
昭和一七年・一一月号

消息

▲尾崎 士郎氏 公務を終つて、この程無事帰京した。愈々健康の由。
▲丹羽 文雄氏 北海道旅行中のところ、最近帰京した。
▲大井 廣介氏 先ごろ河豚中毒で臥床したが、漸次快方に向つた。生命には別條なき由。
▲坂口 安吾氏 剣道研究中のところ、復(ママ)案成り近く小説「宮本武蔵」を起稿する。
▲高木  卓氏 書き下ろし中篇小説を執筆中。
▲南川  潤氏 同上。
▲野口富士男氏 同上。
▲宮内 寒彌氏 同上。
▲井上友一郎氏 同上。
▲壇  一雄氏 小説を某創刊雑誌に寄稿した。(註 近来公私多端で、原稿は容易に書けぬ由。)
▲平野  謙氏 某書房の書き下ろし作家論は、年内執筆覚付ない由。(註。同上)
▲菊岡 久利氏 某官庁募集の防空小説予選を委嘱され、鋭意選衡中。

解説
この「宮本武蔵」については続報が次号の消息欄に載る。それにしても、フグなんて喰ってる場合か、大井広介(笑)。


昭和一七年・一一月号

わが文學的交友録 菊岡久利

(前略)岡本潤は、僕と会って、三度ほど続けて坂口安吾の書くものをほめた。すると大阪の小野十三郎のところからハガキが来て、坂口安吾の書いたものをほめて来た。うれしかった。(後略)」

解説
「へえ、岡本潤が安吾をほめてたのかあ」という、それだけで引用してみました。大井広介の手紙魔ぶりや饒舌ぶりを書いた箇所が面白いのであるが、長くなるので省いた。しかし、大井に対して「詩の鑑賞眼の低いこと無類な批評家はどうしても楽天的であるより他ない」とまで書いてるのは、洒落半分にしてもキツイなあ(笑)。



昭和十七年十二月号

第五巻・第十二号
昭和一七年・十二月号

消息

▲北原 武夫氏。病を得て近く帰国する由。
▲丹羽 文雄氏。京都方面へ旅行した。
▲半田 義之氏。芝木好子氏他数氏と共に新著出版記念会が行はれた。盛会の由。
▲坂口 安吾氏。既報「宮本武蔵」は当分延期し、「島原の乱」第一篇を鋭意執筆中
▲菊岡 久利氏。感ずるところあり、珊瑚座と関係を絶つた。
▲湯浅 克衛氏。十九日朝鮮旅行に赴いた。
▲井上友一郎氏。大磯移転は取り止めた。
▲佐々木基一氏。「堺市史」を研究中。但し当分なほ静養中で執筆不能の由。
▲大井 廣助氏。前号所報、河豚中毒は完全に全治した。

解説
小説「宮本武蔵」は、「青春論」(『文学界』昭和十七年十一・十二月号)の一部として使ってしまい結局完成しなかったのは周知の通りで、この「消息」欄は随分ぼかした表現にとどめている。


昭和一七年・十二月号

私事 大井廣介

 本年度の印象殆どナシ。主として去年の春から思ひたつた小説論の準備に忙殺されてゐた故であるが、但し野球はふんだんにみ、酒も飲みウスノロや探偵小説の犯人当てあひをやり、ことに坂口安吾を惨々まかした。毎日頑張つてゐたらとッくに片づいてゐた筈だが齷齪貯金家のやうにはどうもやれない。(中略)ひとの気苦労もしらず、坂口安吾、菊岡久利が続いてこの雑誌に私に関する與太記事を発表したのには大迷惑した。このご両人が揃つて頓狂で間抜け、おまけにいづれ劣らぬ大法螺吹きとはつゆ知らぬ読者は私を誤解するに違ひない。来年にはまづ編輯長にかけあつて、わが交友録を私にもやらしてもらひこのご両所の滑稽さをとくと披露したい。彼等は私の場合のやうに誇張曲筆しなくても愛嬌があり、ほんの一端を素朴に紹介するだけでも充分抱腹絶倒的奇ケツである。仕事の抱負としてはまづ懸案の長篇小説をかいてみる、チョンマゲ物である。アンゴ先生の感心するやうな、キユゥリ先生風情の及びもつかぬ傑作をかく心組である。他にはとんと何も考へておらぬ。」

解説
いかにも十二月号らしい「今年の印象と来年度の計画」欄に大井広介が書いたエッセイ。文中「坂口安吾、菊岡久利が続いてこの雑誌に私に関する與太記事を発表した」とあるのは、それぞれ八月号掲載の安吾「大井廣介といふ男 並びに註文ひとつの事」、十一月号掲載の菊岡「わが文學的交友録」を指す。「わが交友録を私にもやらしてもらひ」とあるのは、この年の九月号からシリーズ化された「わが文學的交友録」のことだが、実現しなかった。もしも大井が書いていれば面白い物になったのは間違いないはずだが。



昭和十八年二月号

第六巻・第二号
昭和一八年・二月号

消息

▲尾崎士郎氏 箱根に静養中。
▲豊田三郎氏 無事帰還した。
▲北原武夫氏 同上。
▲坂口安吾氏 「日本文化私観」をスタイル社より、「近作短篇集」を大観堂より近刊する。
▲杉山英樹氏 健康回復、近く本誌にも力作評論を続々発表する。
▲高木卓氏  評伝「聖徳太子」を上梓した。
▲菊岡久利氏 この程、大都映画企画部長に就任、毎日出勤活躍中。
▲壇一雄氏  病気静養中、但し読み書きは差支へぬ由。
▲野口富士男氏 書き下ろし長篇「黄昏運河」を鋭意執筆中。近く今日の問題社より上梓の由。
▲須田嗣夫氏 大井廣介の紹介で本誌同人となる。
▲井上友一郎氏 短篇集「雁の宿」を今日の問題社より近刊する。
▲宮内寒彌氏 題未定長篇を執筆中。
▲平野謙氏 この程勤務先を辞任文筆に専念するとの噂は、全く誤伝の由。
▲寺岡峰夫氏 一月十五日敗血症にて死去。謹しみて哀悼の意を表す。

解説
安吾の「近作短篇集」とは言うまでもなく『真珠』(大観堂 昭和十八・十)のこと。なお、『現代文学』に載った『真珠』の広告を三種、画像でご紹介する予定。よくわからないのが、この号から同人になったという(次号消息欄も参照のこと)「須田嗣夫」。なんだか正体不明の人物なのである。意外と大井広介の変名だったりして(笑)。


昭和一八年・二月号

文学について―最近の感想― 菱山修三

(前略)
世間知の文学、良識の文学を嫌ひ、ファルスの文学に精魂を傾け、ギリシヤ古典喜劇を愛し、ボルテエルを友とした坂口安吾も、いつか芥川龍之介の自刃した時の年齢に達したのではないかと思ふ。坂口の無法人沁みた文章も、心ある世人を動かしてゐるやうだが、坂口の小説は万人を泣かしめるには未だ多少の時日を残してゐるやうである。吉井勇翁はけふの貴族であるが、坂口はもつと古い貴族の末裔である。吉井伯は藝人根性に幾度か塗れたが、坂口は少年時から変らぬ無地の絹のやうな貴族である。友よ、幸に自重せよ。
(後略)

解説
安吾の旧友、菱山修三のやや散文詩的なエッセイ。イメージの飛躍によって文章が進んでいくので、武者小路実篤、芥川龍之介、坂口安吾、菊岡久利、菊池寛、井上友一郎と、なんだか不思議な取り合わせの中で安吾のことに触れられている。初期の安吾を知る旧友がこの当時の安吾をどう見ていたかが窺われる箇所を抄録。「貴族」というのは安吾を語るキー・ワードとして重要かもしれない。



昭和十八年三月号

第六巻・第三号
昭和一八年・三月号

現代文学寒中錬成記

 秋のシーズンに堂々『中央公論』を軍門に降した『現代文学』野球部は、めずらしい寒中錬成を行つてゐる。
 坂口安吾、菊岡久利、南川潤、平野謙、大井廣介、三雲祥之助、前田正衛、等の青春チームと井上友一郎、稲邊道治、宮内寒彌、郡山千冬、赤木俊、長畑一正、等の人生チームにわかれて対戦してゐる。十二月十二日の第一回戦では、坂口の快速球と菊岡の豪球に、井上の軟投、相対峙して一歩も譲らず、二対二の記録のまま九回裏青春最後の攻撃に至り、まづ南川の三塁打に出づるや、これまで長打をねらつて大きく三振した大井が逆にバンド(ママ)で南川を生還させ、さしもの激戦も青春に凱歌があがつた。この試合では菊岡の本塁打と、人生の宮内、稲邊の両選手が再三無暴な盗塁に刺されたのが記憶に残つた。一月三日の二回戦は井上投手益々円熟して青春を押さへ、かたや青春は先発南川投手は変幻自在な投球で相手を翻弄したが、交替して菊岡投(ママ)力投するやいちいち直球をねらひ打ちされ、一三A対零といふスコアをもつて悠々人生の復讐はなつた。次回は坂口長老の長篇脱稿と壇、佐々木両選手の回復を待ち、華々しく決勝戦を挙行する予定。
『イプセン』『虹』を残して勇躍会津若松の部隊へ入営した投稿家安達正少年は職業野球の選手志望であつたとは、はてさておそろしき『現代文学』軍ではある。

解説
無署名のコラムで、筆者は不詳。これで全文である。

大井広介「『現代文学』の悪童たち――戦争を如何にしのいだか――」(『文学界』昭和三0・九)に「昭和十七年の正月であろうか。多勢あつまつたので、二組にわかれて、ファイン・プレイをやることになつた。(中略)ゲームにさきだつて、菊岡が、このゲームの結果はどちらが勝つても、本当の野球をしたことにして、次号に書くことにしようぢやないかと提案した。(中略)このゲームは約束に基き誌上に本当の野球のやうに掲載され、菊岡は行く先々で、正月さうさうから、乱打され、ひどいめにあひましたねとなぐさめられたさうだ」とあるのが、この文章のことらしい(「昭和十七年の正月」とあるのは大井の記憶違い。「ファイン・プレイ」とはアメリカ製の野球盤とのこと)。ちなみにこのゲームの最高殊勲選手には商品として葡萄酒が与えられる筈だったのを、一同がゲームに熱中している隙に安吾が全部飲んでしまったとのこと。うーむ、流石と言うべきか。

冒頭「秋のシーズンに堂々『中央公論』を軍門に降した」とあるのは、昭和十七年九月十三日早大球場での試合を指す。スコアは「十一A対九」であった。井上友一郎がサイクルヒットを記録している。この試合のことは前掲大井広介のエッセイに出てくるほか、「現代文学」昭和十七年十月号のコラム「『現代文学』野球錬成記」(これも筆者不詳である)に詳しい。なお、そのコラムには安吾が出てこないので略した。

ところで、関井光男「編年体評伝・坂口安吾とその時代」(『国文学』昭和五四・十二)の昭和17年の項に「十二月、(中略)『現代文学』同人の野球で、投手として登板した」とあるのは、この文章の「十二月十二日の第一回戦では、坂口の快速球と菊岡の豪球に」との記述を受けてのものか(昭和18年一月の項も同様)。うーん、こんな些末な文章にまで目を通しているのかと思わず感心するが、どうやら本当の野球で投げたわけではないようですよ、関井先生。
※念のため冬樹社版全集の「伝記的年譜」を見てみたら同様の記述があり、根拠としてこの文章の名が挙げられていた。やはり関井光男、ただ者ではない。



昭和一八年・三月号

消息

▲豊田三郎氏 北九州旅行中。
▲武田麟太郎氏 三月帰国の由。
▲坂口安吾氏 故母堂一周忌で新潟へ帰省中のところ廿日帰京した。
▲丹羽文雄氏 九州及び台湾旅行に十六日出発した。
▲上林暁氏 小説集「流寓記」を博文館より上梓。
▲高木卓氏 現代語訳「曽我物語」を小学館より上梓。
▲井上友一郎氏 北支満州視察旅行を当分延期した。
▲大井廣介氏 最近銃剣術を習得中。
▲菱山修三氏 本誌編輯同人となる。
▲半田義之氏 同上。
▲長見義三氏 同上。
▲菊岡久利氏 前号所報、大都映画企画部長就任は、「大映」の誤りにつき訂正。
▲佐々木基一氏 湯河原より帰京、体重増加の由。
▲須田嗣夫氏 前号所報、大井廣介氏の紹介で同人参加は全く誤りに付き取消す。なほ此程軍務公用にて出発の由。
▲杉山英樹氏 文学紀行「北方の窓」を小学館より上梓。

解説
安吾の母アサが死去したのは前年、昭和十七年二月二十六日。この一周忌の帰省時に来月の消息欄に載る大事件が起こったのではないかと私は睨んでおります。献吉兄さんに「炳吾よ、お前もいい加減そろそろ身をかためちゃどうだ」とかなんとか言われたんじゃなかろうかと推察する。もっとも、次号の消息欄の情報がどれだけ信頼できるか疑問なのだが……。謎の「須田嗣夫」氏も以後すっかり姿を消してしまうのだった。



昭和十八年四月号

第六巻・第四号
昭和一八年・四月号

消息

▲平野謙氏 月末名古屋伊勢方面に旅行した。
▲杉山英樹氏 帝大病院に入院加療中。
▲大井廣介氏 前号所報銃剣術習得中の記事は誤りにつき訂正。
▲丹羽文雄氏 台湾より帰つた。尚この程「海戦」は中央公論賞を受けた。
▲坂口安吾氏 近く結婚の由。
▲稲邊道治氏 同上。
▲小田切秀雄氏 軍務公用で出発。
▲南川潤氏 花嫁学校講師を辞した。
▲赤木俊氏 岩原スキー場より帰つた。
▲井上友一郎氏 月末約一週間、大阪へ赴いた。
▲半田義之氏 近く南方旅行に出る。
▲三雲祥之助氏 本誌同人となる。

解説
今回、消息欄をチェックしていて一番驚いた記述がこれ。あまりに唐突な「近く結婚の由」の一言。そんな話聞いてないぞ。そもそも相手は誰だ?やっぱり見合いだろうか?謎は深まるばかりである……。しかし、赤木俊(=荒正人)よ、スキー場で何してたの?



昭和十八年五月号

第六巻・第五号
昭和一八年・五月号

消息

▲伊藤  整氏 世田谷区祖師ヶ谷一ノ五八二に転居した。
▲宮内 寒彌氏 四月一杯、岡山、四国方面旅行、五月上旬帰京の予定。
▲井上友一郎氏 大阪から帰つた。
▲織田作之助氏 文報大会出席のため、四月上旬、上京した。
▲平野  謙氏 現職の傍ら文化学院講師に就任した。
▲壇  一雄氏 此程、南支経済調査会に入社。
▲三雲祥之助氏 春陽会々員に推挙された。
▲長見 義三氏 近く上京の由。
▲坂口 安吾氏 既報、結婚問題は難関に逢着した 但し確報ではない。
▲稲邊 道治氏 同上。
▲杉山 英樹氏 当分なほ入院中。六月末頃退院の由。
▲野口富士男氏 小説集「黄昏運河」を今日の問題社より上梓した。
▲高木  卓氏 ワグナア原著「ベエトオベンまゐり」を翻訳、岩波文庫本として上梓。

解説
おっと〜、安吾の謎の縁談はこのまま謎のままで終わってしまうのか。しかし、前号では安吾と稲邊が同時に「近く結婚の由」ときて、今号ではまたまた二人揃って「結婚問題は難関に逢着」、いかにも怪しい。やはり先月は四月号だけにエイプリル・フールだったと見るべきか。


昭和一八年・五月号

読者の頁

(前略)
○僕は貴誌坂口安吾氏の随筆を愛好する者ですが、元来氏の専門は小説家なのですか、それとも随筆家ですか。(吉原一男)
▲立派な文人です。(後略)

解説
既にこのころから、エッセイの方が面白いとか言われてたとは、不憫なり安吾。本人は常に自分は小説家だと思っていたろうに。


昭和一八年・五月号

解説
「真珠」の広告その一。値段にご注目。近刊予告のこの時点では二円三十銭とある。



昭和十八年六月号

第六巻・第六号
昭和一八年・六月号

消息

▲高見  順氏 神奈川県大船町山ノ内三三に転居した。
▲岩倉 政治氏 満鮮旅行中のところ五月下旬帰京した。
▲三雲祥之助氏 神戸方面旅行中。
▲佐々木基一氏 加療中のところいよいよ健康快復書(ママ)。
▲野口富士男氏 書き下ろし長篇八百枚を脱稿した。
▲打木村 治氏 満州州(ママ)旅行中のところ帰京した。
▲坂口 安吾氏 エツセイ集「日本文化私観」を文体社より近刊。
▲福田 清人氏 朝鮮旅行中。
▲山室  静氏 当分文芸評論は書けぬ由。猶、ツユテイフター(ママ)作「森の小径」を翻訳、大観堂より近刊。

解説
「文体社」とは「スタイル社」が社名変更したものであることは言うまでもない。時代ですなあ。



昭和十八年七月号

第六巻・第七号
昭和一八年・七月号

消息

▲坂口 安吾氏 六月下旬より約二ヶ月の予定で新潟に帰省滞在する。
▲大井 廣介氏 雑誌「相撲と野球」主催にて力士笠置山勝一氏と対談した。
▲井上友一郎氏 長篇「清河八郎」を脱稿、近く大観堂より上梓の由。
▲南川  潤氏 長篇「生活の扉」を大日本雄弁会講談社より上梓した。
▲菊岡 久利氏 都合で武蔵野病院に入院したが直ちに快癒退院の由。
▲三雲祥之助氏 神戸より帰つた。
▲長見 義三氏 上京延びる由。
▲太宰  治氏 長篇小説脱稿。
▲尾崎 士郎氏 長篇小説「日蓮」「青春記聞」好評重版。
▲宮内 寒彌氏 当分旅行には出ない由。
▲豊田 三郎氏 長篇小説を計画中。
▲佐々木基一氏 近畿各地に静養先を物色中。
▲杉山 英樹氏 当分なほ入院の由。
▲高木  卓氏 四谷区荒木町一九ノ一と番地改正。
▲壇  一雄氏 「文芸日本」座談会に出席した。
▲奉仕会歴史文学賞設定 荒木貞夫大将を会長とせる同会に 此程歴史文学賞を設定、(一年一回一千円)なほ右披露のため本誌関係よりは高木、井上、壇の三氏が華族会館に招待された。

解説
毎年夏には帰省して「島原の乱」を書こうとする安吾であったが、今年こそは書けるのであろうか……(笑)。どうも兄さんの家に呪いでもかかっているとしか思えませんな。太宰の「長篇小説脱稿」とあるのは「右大臣実朝」であろう(九月号の消息欄参照)。



昭和十八年八月号

第六巻・第八号
昭和一八年・八月号

消息

▲菱山 修三氏 八月末まで那須温泉に滞在す。
▲坂口 安吾氏 八月中新潟市二葉町一に滞在。
▲高木  卓氏 長篇「復讐譚」を近く上梓。
▲井上友一郎氏 長篇「千利休」続編執筆中。
▲杉山 英樹氏 評論集「芸術論争」を昭森社より上梓。
▲大井 廣介氏 近く宇治川視察に赴く由。
▲佐々木基一氏 目下病気療養中。
▲福田 清人氏 大政翼賛会文化副部長になる。
▲田畑修一郎氏 七月二十三日、急性盲腸炎にて急逝。
▲川室  静氏 「タゴール詩集」を翻訳上梓。

解説
「新潟市二葉町一」とは兄・献吉宅で、相変わらず「島原の乱」を書いていたものらしい。これだけ書こうとしてて、なお書けないというのは注目に値するかも。



昭和十八年九月号

第六巻・第九号
昭和一八年・九月号

消息

▲坂口 安吾氏 郷里より帰つた。
▲菱山 修三氏 那須温泉から帰つた。なほ此程イサベル・ランボオ著「捨身と信仰」を翻訳、那珂書店より上梓。
▲井上友一郎氏 大腸カタルで約三週間臥床したが、此程全快の由。
▲高木  卓氏 伊東より帰つた。
▲赤木  俊氏 佐々木基一氏と共に軽井沢より帰京。
▲大井 廣介氏 宇治川旅行は当分延期の由。
▲太宰  治氏 長篇「右大臣実朝」を近刊する。
▲南川  潤氏 書き下ろし長篇執筆中。
▲石川 利光氏 軍務公用で帰郷した。

解説
やはり「島原の乱」が書けずに戻ってきた安吾であった。なお、消息欄が載るのはこの号が最後である。



昭和十八年十月号

第六巻・第十号
昭和一八年・十月号

解説
「真珠」の広告第二段。これによると定価は二円五十銭。近刊予告より少し高くなっている。変動相場制であるなあ。横並びの価格設定が気にならないこともないが……。



昭和十八年十二月号

第六巻・第十一号
昭和一八年・十二月号

解説
そしてこれが「真珠」の広告パート3。遂に定価は二円十銭に。ダンピングか?そこでクイズ。「真珠」のほんとの定価はいくらだったのでしょうか?答えは私も知らない(笑)。


daf/pfe01774@niftyserve.or.jp 1998/09/25
daf/pfe01774@nifty.ne.jp 1998/11/26 増補

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