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重松泰雄先生を悼む

世界とまっすぐに向き合った人――花田俊典

 「私は其人を常に先生と呼んでゐた」、と漱石の長篇「こヽろ」の「私」は語り出している。「其方が私にとつて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ『先生』と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である」。だから、わたしもまた重松泰雄先生のことを、ここで自然に、ただ先生とだけ呼びたいと思う。  
 先生が急逝されたのは六月十九日の早朝、――ちょうど鴎外が小倉に赴任して百年目にあたるこの日、かつて鴎外論で博士号を取得された先生は、小倉で鴎外記念の講演の予定があったという。太宰治の桜桃忌の日でもあり、また先生の好きなあじさいの花が咲き競う季節でもあったが、そんなことは、しかしどうでもいい。
 先生は長く九州大学、ついで福岡大学に勤務し、文献実証派の学者として日本近代文学の研究界の草創期のリーダーを務められたし、七十歳を過ぎても精神分析学者のラカンの著作を読み、あるいはベンヤミンの難解なパサージュ論をみずからの漱石論に取り込むなど、なお柔軟な志向を失わない人でもあったが、しかしこれも、どうでもいい。
 痩身長躯の病弱な先生は、若い頃は小説家志望の文学青年で堀辰雄ら軽井沢派の作家らと交遊し、戦後は大西巨人氏らと文芸雑誌を発刊する計画もあったそうだが、いまから十年ほど前、この先生をけしかけて、わたしたちは文学批評誌「敍説」を発刊し、先生はこれに漱石論を連載された。そのうち小説も書きますよと先生は笑って語られたのだったが、これも見果てぬ夢に終わった。人生なんて、こんなものだろう。
 けれども、わたしがここで先生と呼びたいのは、こんな世間的な理由からではない。なにより先生は、自分より上にも、自分より下にも、誰も、何も、いっさい置かない人だった。日常の会話でも論文でも、その視線はまっすぐに前を向いていて、学生の卒業論文でも見下さず、カントでも漱石でも、けっして仰がない批評的精神の持ち主だったといってよい。誰をも命じず、誰からも命じられず、ひたすら自分とまっすぐ向き合うことだけに関心があったのだろう。かなわないや、と思う。石橋を叩いても渡らないというリゴリズム(厳格主義)も先生の言動で知ったし、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うという不逞の精神もまのあたりにしてきたが、世界とまっすぐに向き合う、これほどのスタンスだけは、わたしは以後、もう他の誰にも見出せない気がする。わたしがもし「不肖の弟子」でなかったら、「こヽろ」の「先生」みたいに何か「遺書」でも書き残してもらえたのだろうが、わが身の丈にわかるほどのことは、こっそりと盗ませていただきもした。ただし人柄のことではない。その存在の緊張感のことをいうのである。 (九州大学教授・日本近代文学)

(『西日本新聞』六月二十四日付朝刊・13面)