語釈


風博士

 風博士とは、一体何の博士なのだろうか。彼の専攻は何なのだろう。日本の大学から博士号を送られたとすると、「文学博士」である可能性が高く、専攻は歴史学か人類学といったところだろうか。しかし、後述する小谷部全一郎のように、外国の大学で博士号を取得した可能性もある。そもそも、単なる自称の可能性すらある。また、専攻とこの作品に見られる風博士の研究とがまるで違うことだってあり得る。要するに、あまりよくわからないのだ。
 安吾が「博士」という命名をしたことについて、浅子逸男氏は「ファルス、初期のカタリ」(『坂口安吾私論――虚空に舞う花』有精堂 1985・05)に於いて典拠となり得る「博士」達を検討している。「『風博士』以前に出現した博士をこころみに列挙すれば、ファウスト、シルヴェストル・ボナール博士、カリガリ博士、マブゼ博士、ジーキル博士などであろう」。このうち、「ファウスト」については、早く牧野信一が「風博士」(「文藝春秋附録・別冊文壇ユウモア」1931・07)で「私は、ファウスタスの演説でも傍聴している見たいな面白さを覚えました」と書いているほか、「カリガリ博士」については神谷忠孝氏も『鑑賞日本現代文学 22 坂口安吾』(1981・01)で触れている(「風博士」以後に発表された夢野久作の「犬神博士」等も同時に挙げてあるので、困ってしまうが)。
 ポオの作品にも「タール博士とフェザー教授の療法」(ちなみに、この両名は人物としては作品中に出てこない。命名法は、Tar 「タール」と、Fether「羽毛」から来ていて、「蛸」と「風」に類似している点も見逃せない)がある他、推理小説畑にはソーンダイク博士とか、ヴァン・ドゥーゼン教授(「思考機械」)等々、人材は豊富である。マッド・サイエンティストものの系譜の中に位置づけることも可能であるかも知れない。


 初出に拠れば、「風博士の愛弟子」であるという「僕」、この語り手の「僕」も正体不明の存在である。既に多くの指摘があるとおり、「僕」に該当する人物は「風博士の遺書」の中には見当たらない。「僕」が風博士の弟子であるとしても、それは「僕」が勝手に主張しているだけで、それを確かめる術はないのだ。
 こうしたことも手伝ってか、「僕」の正体をめぐる考察も少なくない。なかでも代表的なのは花田俊典氏の「『風博士』解読 あるいは蛸博士の奸計」(『語文研究』66・67号 1990・06)が提出した「僕=蛸博士」説である。変わったところでは、廣瀬晋也氏の「風博士の仮面――坂口安吾覚書」(『敍説』3号 1991・01)の「僕=風博士の妻」説というのもある。


かの憎むべき蛸博士

 通常、風博士に対置して解釈される蛸博士には、論者によって様々な意味が与えられている。「人間をアートマンである風と、肉体である『蛸』に分けてその相克を描いた」とし、「蛸」を「リンガム(=男根)」とした宗谷真爾氏の「虚空の幻術師――インド教的安吾私見」(『日本きゃらばん』17号 1967・10)の解釈、「黒谷村」に出てくる「蛸」のイメージから、安吾の作品中の「軟体動物とは肉体美を有する女性を象徴させていた」として「蛸博士の正体は女性なのではあるまいか。しかも相当な肉体的魅力をそなえた女性だと考えてよさそうである」とする浅子逸男氏の「『風博士』論」(『坂口安吾私論――虚空に舞う花』有精堂 1985・05)の解釈、これらは風博士を「空想・理想」側、「蛸博士」を「肉体・現実」側とするものであり、大まかには神谷忠孝氏や廣瀬晋也氏、村上護氏の『安吾風来記――ファルスの求道者』(新書館 1986・03)の論(蛸博士=ドビュッシー、風博士=エリック・サティだとする)もこの系列に属する。これとやや違う意味付けなのが、関井光男氏の「坂口安吾――制外者の世界について」(『解釈と鑑賞』1970・12)の解釈で、風博士を「現実(日常世界)」、「蛸博士」はその日常世界に侵入する非日常=〈グロテスクなもの〉だとする。但し、同じ関井氏の「道化の意匠」(関井光男編『坂口安吾の世界』冬樹社 1976・04)に於いては、風博士を「現実」だとしていた見方に若干修整が加えられているようだ。 以上のような二項対立的な見方に対して異議を唱えたのが花田俊典氏の論であるが、安吾の「FARCEに就て」(『青い馬』1932・03)の言葉から見ても、二項対立の図式の中でそのうちの一方に収斂されてしまうような解釈は確かに適当ではないと思われる。
 伝記的事実からモデルを推定する若月忠信氏の説もある。「岡村昌太郎とは新潟中学の博物の教師で、安吾の恩師。蛸博士のモデルである。(中略)安吾は博物の成績が不良で進級できなかった。そして故郷を追放された。蛸博士のモデルを岡村昌太郎とすると、風博士は安吾自身になろう。妻を故郷と読み替えると、次のように読み解けはしないだろうか、ふるさとを追われた安吾の悲しみをテーマにした小説」(若月忠信『坂口安吾の旅』春秋社 1994・07)。確かに、わからなくはないけれど、やたらとスケールの小さな話になってしまうのが残念である。


【増補版追加項目】
かの憎むべき蛸博士を御存知であろうか? 御存じない。噫呼、それは大変残念である。

 繰り返し出てくるこのフレーズを安吾自身が「清太は百年語るべし」(『紀元』1935 03)でパロディ化している。

「『ときにアナタ――いや、これはお初に珍しいところでお目にかかりました、いやまことにお珍しい、ときにアナタ、ソツジながらお尋ね致すがかのバル・ザック氏を御存じで。御存知ない? それは残念! そもそもバル・ザック氏といえば……」
 いや驚いたのは悪魔の奴で。――むらむらと薄気味悪い不安にかられ二歩三歩退きますと、
 『そこでバル氏はハン・スカ夫人と……アナタ、ハン・スカ夫人を御存知ないですか? 御存じない! 困るですね、それではですねアナタ……』情熱を傾けて語りながら旅人は悪魔の奴が退くだけ夢中につめよせてくるのです。」

 実際、安吾ならずとも真似してみたくなる名フレーズではある。ところで、旅人=清太とは誰かを御存じであろうか?御存じない。嗚呼、それは大変結構である。清太は若園清太郎のことで、この文は若園の『バルザックの生涯』讃として書かれたもの。この文の内容を「風博士」に当てはめてみると、「僕」が「清太」であり、彼が語りかける相手である「諸君」が「悪魔」ということになる。うーん、我々読者は「悪魔」だったのか(^-^;)。まぁ確かに、俺たちは天使じゃない(笑)。


仮面を被り

 関井光男氏は、蛸博士は「無毛赤色の怪物」という〈グロテスクなもの〉であり、「鬘をかぶることによって日常の人間となり、風博士の美しき麗しき妻を略奪」したとする。「鬘」、そして「仮面」は、〈グロテスクなもの〉が「見せかけの日常」に侵入するための「道化の意匠」だということになる。但し、蛸博士と対置される風博士について、「風博士の正体は〈グロテスクなもの〉に侵された現実(日常世界)にほかならない」とする点には、疑問が残る。風博士も、その遺書等からその人となりを判断すれば、「日常世界」どころか充分〈グロテスクなもの〉なんじゃないだろーか(笑)。
 また、「仮面」の語に着目して、蛸博士を風博士の別人格(ペルソナ)との解釈を示したのが廣瀬晋也氏である。

【初版増補版追記】
 関井光男氏の〈グロテスクなもの〉という指摘で思い出されるのが、ボードレールの「笑いの本質について および一般に造形芸術における滑稽について」(1855)の記述である。
「……人間の笑い、しかしながら真の笑い、自分の同胞の弱さの徴でも不幸の徴でもない対象を眺めての、激しい笑いだ。私がグロテスクというものによって惹き起される笑いのことを言おうとしていることは、容易に察していただけるだろう。奇想天外な創造物、常識の基準から割り出したのではどうしてもその存在を正当化できないような者たちが、しばしば、私たちの心の中に、気違いじみた、度はずれの可笑しさをよびおこし、これは、腹も裂け気絶せんばかりのとめどもない笑いとなって表現される。(中略)滑稽は、芸術的見地から見れば、一個の模倣である。グロテスクは、一個の創造である。」(『ボードレール全集 4』阿部良雄・訳 人文書院 1978)
 見ての通り、安吾の「FARCEに就て」の記述に近似した内容でもあり、「グロテスク」を「真の笑い」として単なる「滑稽」の上位に置いている等、関井氏がこれに触れていてもおかしくない筈だが、「道化の意匠」を読み直してみてもこの文章への言及はなかった。関井氏がこれを読んでいない筈はないと思うのだけれど……。邪推すれば、安吾の「二十七歳」の「ボードレエルへの抗議」「ボードレエルの鑑賞眼をひそかに皮肉る」といった言説との衝突をおそれたものか。


門にあらゆる悪計を蔵す

 「異同」の箇所を見ての通り、『年刊小説 1932版』では、「門」が「内」になっている。この箇所が「門」だと、蛸博士が学者として「一門」を為しており、且つその数を頼みにして多くの策謀を用いて「学会」内での権力を恣にしている――とでもいった感じであろうか(かなりイメージが暴走してます)。しかし、ここはやはり「仮面」をつけた外見と、その内面との対比で捉えて「内」である方が適当であろう。


南欧の小部落バスク

 vasco、バスク語ではエウスカディ(euskadi)と呼ばれる地域。イベリア半島の西側の付け根にあり、本文にあるとおりピレネー山脈の北端、スペインとフランスの国境付近にある。とりわけその独特の言語であるバスク語で有名で(余談ながら、日本国語大辞典には「バスク語」の見出し語はあるが、「バスク」は見出し語になっていない)、その起源は不明、言語的にヨーロッパで孤立している。本当に日本語にそっくりな語彙もあるらしいが、詳細は不明。日本に馴染みの深いバスク人としては、フランシスコ・ザビエルがいる。
 バスクの言語的・民族的特殊性が日本にどのように伝えられ、安吾がどこからそれを知ったかは、正直よくわからない。「風博士」執筆当時のバスクは、人民戦線宣言・総選挙実施・スペイン内戦・バスク自治政府樹立というその歴史上重要な時期にあたるが、こうした時代背景との何らかの関連があるのかは、これまたよくわからない。今後の検討課題でしょう。

【初版増補版追記】
 日本語によるバスク関連の基礎文献である渡部哲郎『バスク――もう一つのスペイン』(彩流社 右上の地図もこれから取って着色した)や下宮忠雄『バスク語入門』(大修館書店)などを見ても、バスク語が日本語に似ているという話は一切出てこない(^-^;)。現代教養文庫の堀田郷弘『バスク奇聞集』(社会思想社 1988)だの、新潮選書の大泉光一『バスク民族の抵抗』(新潮社 1993)だの、「バスク」と名が付く本はいろいろ見てみたが全て空振り。これは、まともにバスクを扱っている本ほど、「日本語とバスク語が似ている」といったトンデモ本的内容は避けているものらしく、ならば直球勝負は無理、ここは少し変化球で。中丸明『スペインを読む事典』(JICC出版局 1992)の「バスク Vasco 」の項には、「ちなみに、日本語の『こればかりだ』という表現は、バスク語 kori bakarrik da. と、そっくりなことに驚かされる」という記述があった。しかし、この程度の類似はいかなる任意の二言語間でもありそうなことで、これをもってどうこう言うわけにはいかないだろう。他に、スペイン旅行関係のガイドブックみたいな本にも、「日本語に似ている」みたいな例が挙がっていた記憶があるが、そのメモが現在行方不明(^-^;)。


源義経は成吉思汗となったのである

 いわゆる義経伝説の一つ。義経が衣川で死なずに蝦夷に渡って生き延びたという説は古くから流布していたらしく、『大日本史』にも「或は云ふ義経蝦夷に逃れ支那に渡り清帝の始祖となると(中略)然れども果して然るや否や未だ判然せず」との記述が見える。ちなみに、「最初に学問的に義経=成吉思汗説を唱えたのは、『義経入夷渡満説書誌』を編纂した岩崎克巳氏の研究によれば、なんと幕末の長崎にオランダから渡ってきていたシーボルトであった」(佐々木勝三・大町北造・横田正二共著『成吉思汗は源義経――義経は生きていた』勁文社 1977)とのことで、「日本人として初めて学問的に唱えたのが、末松謙澄博士の英文の論文」「一八七九年(明治十二年)、ロンドンで刊行された『史学論文・大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人なること』である」(同上)という。この末松論が「内田弥八という人の訳によって、『義経再興記』(明治十八年)として国内で刊行されるや、がぜんセンセーションをまき起した」(同上)らしいが、この「風博士」の記述に就いては、既に先行論に指摘のあるとおり、小谷部全一郎(おやぶ・ぜんいちろう 1868〜1941)の『成吉思汗ハ源義経也』(富山房 1924)に何らかの影響を受けている可能性が高い。

 小谷部全一郎は、明治二十一年単身渡米し、本を書いて学費としながらエール大学で神学を学び、博士号を取得。滞米中にアメリカの先住民教育を見て、同様の苦境にあったアイヌ教育の必要を痛感、明治三十一年帰国し、同三十四年には自ら北海道に移り住みアイヌ教育に尽力する。この小谷部の北海道時代に、アイヌの伝承を聞くなどして義経=成吉思汗説が胚胎したものらしい。アイヌ教育の功労により叙勲を受けるが、明治四十四年には北海道を離れて東京を中心に教育・著述の仕事を続ける。そして大正十三年『成吉思汗ハ源義経也』を書き、当時のベストセラーとなる。これには「大陸侵略をめざす当時のわが国として」「侵略を合法化できる切り札にもなりかねなかった」(荒巻義雄・合田一道共著『義経伝説推理行』徳間文庫 1993)という時代背景を指摘する向きもある(小熊英二『単一民族神話の起源』新曜社 1995 にも同様の指摘があるのは周知のとおり)。

 なお、小谷部と当時の正統派歴史学者達との間には批判と反論の応酬があった。まず「中央史壇」の大正十四年二月臨時増刊号「成吉思汗は源義経にあらず」特集が小谷部説を真っ向から批判し、小谷部も『成吉思汗ハ源義経也著述の動機と再論』を発刊して反論、更に「中央史壇」側も続特集を出して批判した。言うまでもなく、学問的には小谷部説は完全に否定されたわけで、このことを念頭に置いて読むと、小谷部と風博士とが妙にダブって見えてくる。その「中央史壇」の続特集に金田一京助は「英雄不死伝説の見地から」を寄せ、「史学の上では完全に死んでも、伝説の上によみがえる。肉体を持った義経は死んでも、霊の義経は永遠に生きつづけるだろうし、それが人間生活に無限の慰めを生じ、手痛き現実生活を生きるためにぜひとも必要なのである」と述べた。学問的には完全に否定しながら、いわば「文学」として小谷部説を「評価」するこの言葉は、我々が風博士に寄せる心情にごく近いものと言えるかも知れないし、或いは蛸博士の言葉であってもおかしくないだろう。ただ、風博士は決してこうした「慰め」を受け容れないだろうが。

 安吾が風博士のモデルとして小谷部を意識していたとすれば、小谷部の『日本及日本国民之起源』(厚生閣 1929)についても、「風博士」執筆時にごく近いこともあり、検討の必要がありそうだ。私自身は未読であるが、小熊英二氏が前掲書で引用している「同情の涙に咽びて筆を進むる勇気も出でず、嗚呼エソ民族は如何なれば斯くも不幸にして悲惨事の絶えざる民族なるぞや」の一文を見ても、風博士の口吻に似ているような気がしないでもない(笑)。この本は、日本民族のヘブライ起源説を唱えたもので、その論法は風博士のそれと大して違わないだろう。実際、バスク地方が人種、風俗等に於いて日本に近いものがあるらしいと小谷部が知ったなら、それもヘブライからの伝搬の結果残された孤立例として自説の傍証に利用してもおかしくないくらいである。ほとんどトンデモ本の世界であるが、事実、と学会編『トンデモ本の世界』(洋泉社 1995)にも「日ユ同祖論を広めた人物」として小谷部の名前がちょこっとだけだが出てくる。


彼は余の妻を寝取ったのである!

 風博士の遺書によると、彼は既婚者であって、妻を寝取られたことに堪忍袋の緒が切れて蛸博士に反撃を試み、それが失敗したために自ら消え去ることにしたという。しかし、「僕」の語りでは、風博士は十七歳の花売り娘と結婚することになっており、その当日、何故かはわからないが消え去ったことになっている。要するに問題になるのは、風博士をめぐるこの二人の女性が何者であるかである。
 多くの論は、「妻」と「十七歳の少女」を別人とし、風博士は再婚を企てていたとしている。すると、「風博士の遺書」の内容――「余の方より消え去ることにきめた」はすぐには実行に移されず、一度は再婚することに決めたものの、その式の当日に消え去ったことになる。つまり、遺書が書かれた日と実際に消えた日の間にはかなりの時間的なズレがある筈なのである。この辺の事情に触れた論はあまり見た覚えが無いですねぇ。
 一方、「妻」と「少女」を同一人物とするのが、花田俊典氏の論である。「僕」は「少女」と一夜を明かしたことになっている(風博士の来場を待ち構えていたものの、結局博士が現れなかったため、そのまま夜が明けてしまったという理由で)が、このことが博士の眼からは「何等の愛なくして余の妻を奪った」と映ったとするのである。即ち、「僕」=「蛸博士」ということになる。しかし、このままでは時間的に無理がある(風博士には妻を寝取られた後に蛸博士の鬘を盗みに行く時間が必要だが、「僕」は一夜明けたその足で風博士の邸に駆けつけて博士の消失に立ち会ったと主張している)ので、花田氏は、「風博士の遺書」の方は「僕」=「蛸博士」による捏造だとしている。つまり、「僕」は「少女」と一夜を明かしたが、それは風博士が言う「妻を寝取った」こととは違う事柄である(時間的に不合理だから)ことを、捏造した「遺書」によって読者に示唆していることになるのだろう。しかも、実際には一夜を明かしたことも決して隠すことなく表明していることになるのであり、まさに「奸計」と呼ぶに相応しい手際であると言えるかも知れない。にしても、どうもすっきりしない部分が未だ残っているような気もする。


時計はいそがしく十三時を打ち

 八木敏雄氏が「消えなましものを――坂口安吾とエドガー・ポー」(『ユリイカ』1975・12)で述べているとおり、「風博士の書斎の時計が『十三時を打つ』ところは鐘楼の時計が十三時を打ったために町中が大混乱におちいるポーの『鐘楼の悪魔』の仕掛けと同じ」である。こうしたポオの作品と「風博士」の類似性ないし影響関係については、安吾自身が「二十七歳」(『新潮』1947・03)で「私は同人雑誌に『風博士』という小説を書いた。散文のファルスで、私はポオのX'ing Paragraph とかBon Bon などという馬鹿バナシを愛読していたから、俺も一つ書いてやろうと思った」と書いていることもあって、多くの論者がいろいろと指摘している。八木氏は上記のほか、「息の喪失」との類似を指摘している(私はあまり似てないと思いますが)し、矢島道弘氏は「風博士」(『解釈と鑑賞』1993・02)で「ヴァルドマァル氏の死の真相」の結末との類似(これは寧ろ安吾の「紫大納言」との類似がよく指摘される作品)、及び「アッシャー家の崩壊」との表現の類似(これは全く似てないと私は思います)を指摘している。こういった類似の指摘では、これはポオの作品ではないが、芥川の「二つの手紙」との類縁性を指摘した廣瀬晋也氏の論が面白い(但し、読んだ印象はかなり違います。寧ろ安吾の「総理大臣が貰った手紙の話」の方に近いかも)。
 ちなみに、私自身はポオの作品では「×だらけの社説(X'ing Paragraph )」が一番近いと思っています(後述)。


偉大なる博士ならびに偉大なる博士等の描く旋風

 「偉大なる博士等」と複数形になっている点が、なかなかに悩ましい。「博士」と名が付く人はこの作品中に二人しかいないので、当然これは風博士ばかりでなく蛸博士も「旋風」を描くのだと読め、そうなると、両者には本質的な差異はなく、単純に風博士VS蛸博士の対立図式では読めないことになる。安吾の「FARCEに就て」(『青い馬』1932・03)の言葉を借りれば、「あいつよりこいつの方が少しは悧巧であろうという、その多少の標準でさえ、ファルスは決して読者に示そうとはしないもの」なのであって、そういえば、蛸博士による「成吉思汗=源義経」説批判もどこか的外れだったし(あれだとバスクのモンゴル起源説そのものは無傷のままである)。
 もっとも、この部分の直前には、博士の慌てぶりが「この部屋にある全ての物質を感化せしめずにはおかなかった」とあることから、「博士等」というのは風博士とその感化を受けた部屋の中の物質達全体を擬人的に表したものに過ぎないのかも知れない。最初、私自身はそう読んだので、この部分にはまったくひっかからなかったんですけどね(だって、蛸博士に「偉大なる」という形容が付く箇所は見当たらないですから)。なお、この部分に拘りを見せている論者には花田俊典氏や廣瀬晋也氏がいます。


偉大なる博士は風となったのである

 安吾の「石の思い」(『光』1946・02)に類似の箇所があることはよく知られている。「ゴミタメを漁り野宿して犬のように逃げ隠れてどうしても家へ帰らなかった白痴が、死の瞬間の霊となり荒々しく家へ戻ってきた。それは雷神の如くに荒々しい帰宅であったが、然し彼は決して復讐はしていない。(中略)彼はただ荒々しく戸を蹴倒して這入ってきて、炉端の人々をすりぬけて三畳のわが部屋へ飛びこんだだけだ。そしてそこで彼の魂魄は永遠の無へ帰したのである」。実際、余りにもぴったりと符合するのでこれで全ての謎が解けたような気がしてしまうが、両作の書かれた時間的隔たり等のことも考えてもう少し冷静になってみよう(^-^;)。
 「石の思い」と「風博士」の類似点として、「ライバル関係にあった二人の力関係の変化」というのも挙げられる。「石の思い」では「……白痴になってからは年ごとに力が衰え、従兄に何目か置かせていたのが相先になり、逆に何目か置くようになっていた」と、囲碁の勝負で白痴は決して従兄に勝てなくなるのだが、同様に「風博士」に於いても、かつては「一人は禿頭にして肥満すること豚児の如く愚昧の相を漂わし、その友人は黒髪明眸の美少年」であったという二人の立場は、「余は負けたり矣。刀折れ矢尽きたり矣。余の力を以てして、彼の悪略に及ばざることすでに明白なり矣」という絶対の敗北の自覚へと変わってゆく。そして、死の瞬間、両者はそのライバルの元へ荒々しく帰ってゆく。しかし、何が出来るわけでもない。全く無駄なエネルギーを費やして無へと消えてゆくだけ。苛酷で懐かしいふるさとへの回帰の如くに(思わせぶりな表現ですまぬ、すまぬ)。こうして比べてみると、うーん、やっぱり似てるかなぁ。
 風になったなんてとんでもない、実は風博士は「書卓」になったのだ――というのが池内紀氏の小説「『風博士』異聞」(『カイエ』1979・07)の推理であるが、これはよくできたパロディなので一読をお奨め。「風博士」のフレーズをちりばめた文体は勿論のこと、「風博士」を古典的推理小説のパロディと見て、これにハード・ボイルド探偵小説のパロディで対抗するという趣向、しかも推理の要は「あまりにもありふれたもの」は「いるとはみえな」いという、「木は森に隠せ」のテーゼ、ポオの「盗まれた手紙」の逆説を利用しているところが、何とも心憎い。もっとも、廣瀬晋也氏がやんわりと批判しているとおり、「蹴飛ばされた扉」と「開いた形跡のない戸口」はやはり別物と考えた方が自然でしょう。そうなると、この「名推理」の一端が破綻してしまうのはやや残念ではあるが。
 なお、この結末については、「紫大納言」「桜の森の満開の下」等の「消失」モチーフの元祖と見る論は数多い。ごく最近のものとしては鬼頭七美氏の「坂口安吾における死と芸術――作品の結末にこめられた意味」(『日本女子大学大学院文学研究科紀要』3号 1996)が、独創性は感じられないが先行論を手際よくまとめている。


さらに動かすべからざる科学的根拠を付け加えよう

 こうした論法をポオの「×だらけの社説(X'ing Paragraph )」の冒頭部分に見出すことが出来る。
「周知の通り、あの三人の賢者たちは、『東方』からやってきた。そして、爆弾炸太郎氏もまた、東方からやってきた。かかるがゆえに炸太郎氏は賢者である――といったのでは、炸太郎氏の賢者たるゆえんを証明する根拠に不足があると申されるのならば、つけ加えよう。――炸の大将は、なにしろ、新聞の主筆であったのだ、と。」(『ポオ小説全集・4』創元推理文庫 野崎孝訳)

 ちなみに、この「×だらけの社説(X'ing Paragraph )」というのは、”Oh”という言葉を多用する実に怒りっぽい新聞社主筆(その名も爆弾炸太郎氏= Mr.Touch-and-go Bullet-head 「おう、そうだ!おう、分かった!おう、疑問の余地はない!」といった彼の語り口が、「風博士」の「嗚呼」だの「嗟乎」だのといった悲憤慷慨調に、なんと似ていることか!)の言論を封じるために、ライバル新聞社の主筆が”O”の活字を盗み出させ、その結果”O”が入るべき箇所が全て”X”に代えられた”X”だらけの社説が印刷されてしまうという、ポオの作品の中でもとびきり「笑える」話である(安吾がこの作品に目をつけたのは流石に偉大なる見識と言わねばなるまい)。

この話は、少なくとも三つの点に於いて「風博士」と同じ枠組みを持っていると言える。まず、二人の社会的に尊敬さるべき人物同士(博士と呼ばれる二人と、新聞の主筆という立場の二人。ついでに、その呼称から期待される論理性を両者とも欠いている点も同じ)の論争が形作る物語であることが第一点、その論争は文書という形で公開された形で為されている(広く「諸君」に呼び掛ける「風博士の遺書」や「僕」の語りと、新聞社説による論戦)というのが第二点、そして第三点は、その結末に於いて一方が「消失」してしまうということである。
「ところが、彼の姿はどこにもない。どうやって逃げ出したものやら、皆目見当はつかなかったけれど、いちはやく彼は姿を消してしまっていて、爾来、影も形も見当たらないのである。」
 なお、原文は直訳すれば「彼は消えてしまった(He had vanished )」であり、炸太郎氏が精魂込めて書き上げた社説が”X”だらけで誰にも理解してもらえないものとなった時にまさに「消失」したのだと読めば、「風博士」に極めて類似した構造を見出すことが出来よう。私、この「類縁性」(敢えて「影響」とは言うまい)にはかなり自信あるんですけど、如何でしょうか?(^-^;)「わが偉大なる爆弾氏」みたいな表現もあるぞ。

【初版増補版追記】
 ついでに書いておけば、安吾の父である坂口仁一郎(五峰)は「新潟日報」社長であり、当時の新聞は政党の御用新聞であるのが常態であったので、ライバル紙から攻撃されることもしばしばであったらしい。「×だらけの社説」を読んだ安吾が、主筆たちの論戦にこうした体験を重ねて見た可能性は皆無ではないであろう(だからどうしたと言われても困りますが)。


インフルエンザに犯されたのである

 「伝染性の強い熱病。感冒の一種。ウイルスによって起こり、A、A1、A2、B、Cの五型がある。一九一八〜二三年にかけてのスペインかぜや一九五七年のアジアかぜなど、世界的な大流行をみることがある。寒け、頭痛、高熱、全身倦怠感などの症状ではじまる。流行性感冒。流感。(日本国語大事典)」この記述にもあるように、「風博士」執筆前にはスペインかぜの大流行があり、それを踏まえるとインフルエンザをいわば「死病」と捉える視点もあり得ることになる。事実、若月忠信氏の『坂口安吾の旅』(春秋社 1994)には、「大正七年頃よりスペイン風邪が流行した。安吾の在学した大正九年に、新潟中学で三十歳代の教諭二名が感冒のために新潟大学病院に入院したまま亡くなった。(中略)追悼会が二月二十八日、全校の職員生徒が列席して講堂で行われた。インフルエンザはおそろしい病気だった」との指摘がある。
 そうすると、蛸博士は既に死亡している可能性が出てくる。且つ又、「スペイン」かぜであるインフルエンザと、「バスク」生まれの妻との何らかのつながりを邪推することすら可能になる。蛸博士を殺したものは、直接間接は問わず、風博士の妻だったかも知れないのだ。


「風博士」語釈(初版)1998/02/25 by daf/pfe01774@niftyserve.or.jp
  同    (初版増補版)1988/03/19 by daf/pfe01774@niftyserve.or.jp


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