暫定コラム――

『無頼派を読む』を読まない

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 無頼文学会・編『作品論への誘い 無頼派を読む』(「国文学解釈と鑑賞別冊」平成十・一)という本がある。その見返しには、「太宰をはじめとする無頼派作家の著書は書架に山積みしている。それだけにどの作品がどこに収載されているのか探すのに苦労する。また、その文献、作品論の数は日々激増している。読者は一体どれを参考にすべきか迷い悩む。ましてやそこにどのようなことが書かれているのかを知ることは困難である。これらの労苦や困難を一挙に解決して近・現代文学、特に無頼派文学の研究者、学生の作品論作成に、愛好者の作品理解を深めるための必須の書である。」とあり、高邁な理想の元に企画されたものと推察されるが、安吾に関する箇所を見る限りその意図は殆ど実現されていないと言わざるを得ないであろう。個人的には、この本を参考に作品論を作成する学生がいないことを心から願わずにはいられない。

 なぜ、そう言えるのか。以下、安吾に就いてのみだが、少し具体的に書いてみよう。まず次の表を御覧頂きたい。この本で紹介されている安吾の作品タイトル(収録順)、各々の作品について紹介されている作品論の本数、その紹介されている作品論の中で最新のものの発表年月、をまとめたものである。

収録作品タイトル紹介作品論数最新の作品論発表年月
木枯の酒倉から昭和59・7
風博士平成5・2
黒谷村平成3・11
海の霧平成8・3
枯淡の風格を排す
吹雪物語昭和47・10
紫大納言昭和47・9
木々の精、谷の精16昭和61・2
イノチガケ平成4・6
10ラムネ氏のこと昭和30・4
11炉邊夜話集昭和59・7
12文学のふるさと昭和50・12
13日本文化私観10平成5・2
14真珠平成2・8
15堕落論平成5・21※原文ママ
16白痴昭和60・11
17女体
18魔の退屈平成5・2
19私は海をだきしめていたい昭和54・7
20暗い青春昭和59・7
21桜の森の満開の下昭和59・7
22不連続殺人事件平成5・2
23青鬼の褌を洗う女平成5・2
24三十歳平成5・2
25不良少年とキリスト昭和45・2
26安吾巷談昭和48・7
27夜長姫と耳男昭和60・11
28信長平成2・10
29真書 太閤記昭和57・7
30狂人遺書11昭和62・9

 この表を見てすぐに気付かれると思うが、この本で紹介されている作品論の数は比較的少なく、しかも古い論文が多いのである。比較的近年のものとしては「平成5・2」という発表年月が目に付くが、これは『解釈と鑑賞』の最新の安吾特集号の収録論文であるからで、これ以外の論文は古いものが目立つのだ。8「木々の精、谷の精」と30「狂人遺書」の作品論数が比較的多く見えるのは、独立した作品論以外の「坂口安吾論」の類を大量に数に含めているからに過ぎない。

 無論、紙幅の制限もあろう。既発表の全作品論を網羅することはこの本の中では不可能であろうし、またその必要もあるまい。見返しの言葉にもあるように、読者が「参考にすべき」論が厳選されている(それも、無頼派文学研究の最先端に立つ名だたる専門家諸氏によって)のであれば、寧ろその方が後進の研究者にとっては利するところ大であると言わねばなるまい。しかし、本当にここに紹介された作品論がその作品の問題点の所在を明らかにし、また研究の現在を知る上で十全のものと言えるのだろうか。

 例えば、6「吹雪物語」に就いて昭和47年以降、重要な論文は書かれていないと担当のY氏は考えているのだろうか。学生は論文を4つ読めばそれだけで大威張りで卒論を書けるのか。7「紫大納言」の担当者であるH氏は「『紫大納※原文ママ』についての作品論は少ない。前述の[主要作品論]の中でも、この作品に限って述べたものでなく、『吹雪物語』にまつわる矢田津世子との恋愛体験や『風博士』とファルスとの関連でのべられたものである」としているが、本当に単独の作品論はないのか。それとも読むべき重要な作品論はないということなのか。

 おそらく、そうではないだろう。「吹雪物語」研究が昭和47年以後進展しなかったわけでは勿論ない。ドストエフスキーの「悪霊」との比較検討が清水正氏(昭和52)、槍田良枝氏(平成2)、鈴木健太郎氏(平成4)等によってなされているし、いわば伝説化して独り歩きしていた〈「吹雪物語」における挫折とそこからの再生〉の実態を作品レベルで見極めようとした花田俊典氏(昭和55)や、トポロジックな意味に触れつつ壮大な「観念小説」「実験小説」と捉える川村湊氏(平成元)らの論考によって研究は既に新たな段階に入っている。

 また、H氏は重要な論文だとは認めておられない(或いは御存じない)のかも知れないが、多分最初の本格的な「紫大納言」論である松本鶴雄氏(昭和48)の論(なぜかこの論については、A氏が11の「炉邊夜話集」の項で挙げておられる。まあ短編集である「炉邊夜話集」を独立項目で挙げているのも意味不明ではあるが。太宰で言えば「晩年」とか「虚構の彷徨」を独立項目にするようなもんだぞ)を初めとして、今や定説となった感のある〈ふるさと回帰〉説を提出した花田俊典氏(昭和52)の論、典拠の問題を指摘した浅子逸男氏(昭和59)や和田博文氏(昭和60)の論、その典拠問題に決着をつけた上で、単なる典拠捜しでは無意味であってそこから安吾の「書法」を見出さなければならないとした関井光男氏(平成4)の論が出るなど、近年論じられる機会の少なくない作品なのである。

 以上の2例だけでは不十分かも知れないが、見返しにあるような「特に無頼派文学の研究者、学生の作品論作成に」役立つ内容となっていないことは感じて頂けたのではないだろうか。しかも同様の問題は一部を除いて他の作品の項にも認められるのだ(上記項目担当者名をイニシャル表記にしたのはそのためである。個人攻撃に受け取られるのは本意ではない)。勿論、これが私の個人的な印象でしかないことはお断りしておかなければならない。各項の担当者は当然自らの責任に於いて先行論を検討した上で「読者」が「参考にすべき」論を厳選した筈であり、それが私の目にどのように映ろうとも、いわば見解の相違に過ぎないと言われればそれまでのことだからだ。

 それにしても、この本は一体どのような読者層を対象にしているのだろうか。研究者、乃至研究者を志すものにとっては縷々述べてきたとおり全く蛇足のような本であるし、アマチュアの文学愛好者向きとは到底思われない。先行研究を一顧だにせずひたすら感想文のような卒論を書き連ねる学生に対して、せめてこの論文くらいは読んでくれと願う啓蒙書でもあろうか。 いずれにせよ、私は「無頼派を読む」は読まない。まあ、そもそもが便覧であり、調べるための本であって、「読む」べき箇所が殆ど見当たらないこともあるが。それでも「せめて文章を読みたい」と思って、島田昭男氏の「戦後と無頼派――前書きに代えて」を読んでみたら、強烈な誤植(この本にはこれが目立つような気がする)にぶっとんでしまった。曰く、

……安吾の場合、「白痴」(「新潮」昭21・6)から「いずこへ」(「新小説」昭21・10)を経て「桜の木の満開の下で」(「肉体」昭22・6)に到る十三篇の小説で……

「桜の木の満開の下で」?(^-^;)おいおい、勘弁してくれよ。妖しくもまがまがしい世界の筈が、まるで「ときめきメモリアル」ではないか。ちゃんと校正はしたのだろうか?

daf/pfe01774@niftyserve.or.jp 1998/04/27


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